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 最近北朝鮮が経験している社会・経済危機の結果の1つとなったのは、中国北東部への多数の朝鮮人の不法移民の出現である。北朝鮮難民の問題は、今、地域諸国に対して顕著な影響を及ぼす要素の1つに変わった。本論文では、中国への北朝鮮人移民の若干の特性と、その存在により引き起こされる問題について語りたい。論文は、今、難民に大きな注意を払っている韓国出版物の資料に基づく。

 北朝鮮を韓国と分断する軍事分界線は、常に綿密に警備され、朝鮮戦争後、事実上、脱北者は侵入できなかった。非常に訓練され、非常に運の良い人間だけが、数kmの地雷原、有刺鉄線、検問地帯を克服した上に、多数の哨兵との衝突を避けることができた。軍事分界線横断の成功数は、非常に少なく、脱北者の大部分は、海上又は第三国を経由して韓国に辿り着いた。同時に、大部分が鴨緑江(ヤールー)と図們江(トゥメン)に沿って通る同盟国の中国と北朝鮮の国境は、決してそれほど綿密に設備されなかった。北朝鮮には、単に高くて手が出せなかったのである。著しい密輸貿易は、国境を越えた住民の無制限の不法移動と同様に、あらゆる点から判断して、この地区では常に行われていたが、特にこの事情は、吹聴もされなかった。つまり、1956年8月、金日成に対する失敗した陰謀の参加者である北朝鮮指導者のグループが、特別な苦労なく国境を横断して、保護を受けた。朝鮮の若干の他の敵対派も、彼らの事例に続いた。1960年代末、「文化大革命」の最中、多くの中国朝鮮族が、逆に、当時体制が少し緩やかで、生活水準は 偉大な指導者の国よりも少し高かった北朝鮮に亡命した。北朝鮮市民の中国への逃亡は、1980年代に再開されたが、当初、大規模な性格を帯びてなかった。

 国境を通った人々の非公式の移動の外、そこでは、半公式の貿易も行われた。中国満州領域(又は、今しばしば称しているように、中国北東部)には、著しい朝鮮少数民族が居住し、延辺朝鮮族自治区すら存在している事情が、それを可能にした。1997年、中国朝鮮族の数は、196万人に達した上に、その圧倒的多数は、朝鮮と国境を接する地区に住んでいる。多くの中国朝鮮族は、北朝鮮に親戚を有し、その少数部分は、北朝鮮市民ですらある。他方、北朝鮮にも、少数の華僑が居住している。北朝鮮の中国人と中国の朝鮮族(何よりも、北朝鮮市民権を有していた者達だけではない。)は、1960年代と1970年代、言い換えれば、両国政府が 警戒線の向こう側に誰も通さないようにしていた時期ですら、国境の反対側の親戚を訪問することができた。勿論、中国の朝鮮人も、北朝鮮の中国人も、この自分の、多くの点で独特な地位から利益を少しずつ引き出し始めた。著者の記憶によれば、既に1980年代初めと中盤に、朝鮮の華僑と中国の僑胞は、密かに往復貿易に従事していたが、当時、その規模はまだ大きくはなかった。当時既に、貿易の一部が密輸で行われており、従って、国境の不法横断と関連していたものと予想できる。技術的に、国境の横断は、特に困難なものではない。図們江は、その大部分において、多くの場所で徒歩で渡れるかなり小さなな川である。鴨緑江と図們江が凍結する冬は、国境横断が更に簡単になる。予想される全ての困難は、地形条件ではなく、国境警備兵の行動に関係しており、従って、国境を警備する当局の希望と能力に依存する。

 中朝国境沿いの状況は、1990年代初めから複雑化し始めた。北朝鮮における経済危機は、政府の住民の移動、並びにその経済活動に対する統制を顕著に弱体化させた。加えて、社会・経済危機は、それでなくてもあまり厳しくない国境警備の弱化、北朝鮮役人、並びに国境警備兵及び軍人中における汚職の顕著な成長をもたらした。中国での改革、並びに中韓間の外交関係の樹立がそれに加わり、その結果となったのは、多数の韓国の観光客、ビジネスマン及び宣教師の沿国境への出現、並びに韓国の投資と何らかの形で結びついた中国朝鮮族の生活水準の急成長 だった。その結果、中朝国境を越えた移動は、合法、非合法を問わず、急成長し始めた。主として、これは、当初、北朝鮮当局が当時までにかなり寛大に扱い始めた 往復商人の活動と関連した。北朝鮮特務機関の高位将校金チョンヨン(彼女は、国家安全保衛部職員だった。)の記憶によれば、既に1980年代末、これらの往復者の中で、北朝鮮特務機関が活発に働いていた。それにも拘らず、韓国諜報部も、自分の利益において商人と難民を利用していることを予想するのは論理的である(これに関する言及は、時折、ソウルの出版物で見受けられる。) 。

 国境沿いの状況は、北朝鮮における破滅的な水害が前例のない凶作を引き起こし、大規模な飢餓が引き続いた1995年後に急変した。飢餓のピークは、1997〜1998年にやって来た。この災害の規模は、今日でも判定が難しく、飢餓の犠牲者数の評価は、数万人から数百万人まで 左右する。しかしながら、1つ明らかなことは、1996〜1999年の飢餓は、朝鮮史上最大の人道上の災害の1つだったことである。災害は、両江道、慈江道、咸鏡北道の沿国境三道を特に強く打撃した。その結果、既に1996年、中国に、餓死から逃れた最初の難民が現れた。間もなく、その数は、数万、その後、数十万にも達し始めた。

 韓国及び西側プレスに掲載されている北朝鮮難民の数の評価は、非常に異なる。これは、統計の不在とも、その数の常時変動とも関係する。難民数を評価しようとする最も真剣な試みは、1998年11月から1999年4月まで行われた韓国社会学者の大規模研究の過程において着手された。そのデータによれば、難民数は、1999年春、14万3千人(最低評価)から19万5千人(最大評価)に達した。この研究は、北朝鮮難民の人口動態的特性に関する一連の重要なデータを含んでいる。その中では、女性が優勢で、難民総数の4分の3(75.5%)を構成する。難民の85.5%は、20歳から50歳までである。彼らの主要拡散地区は、朝鮮族の密集居住地である上に、何らかの居住区における朝鮮族住民の割合が高ければ高いほど、難民の割合も大きくなる。

 それにも拘らず、これらのデータは、唯一のものではない。2000年8月に公表された国連難民高等弁務官事務所の評価によれば、中国には、ほぼ10万人の北朝鮮市民が不法に滞在していた。1999年初めと比較して、難民数の若干の減少は、北朝鮮における食料状況の一部改善で説明できる。例えば、2000年夏、中国沿国境地区の住民は、影響力のあるソウル紙「ハンギョレ新聞」の記者に、国境を横断する難民の数が1998年にピークに達し、以後減少したが、著しいままでもあると語った。恐らく、中国の立場の若干の引き締めも、難民数減少に寄与したのであろう。出版物の指摘によれば、2000年、中国警察は、難民の摘発及び追放に活発に従事し始めた。しかしながら、全員が国連高等弁務官事務所の上記評価に同意している訳ではない。2000年9月、伝統的に北朝鮮問題に良く通じている「中央日報」紙は、中国には「30万まで」の北朝鮮難民が存在すると報道した。

 存在する数値評価のあらゆる不確実性の下、北朝鮮の不法移民が中国北東部において顕著な現象に変わったのは明らかである。その存在は、韓国、中国及び北朝鮮の関係における顕著な要素となり、恐らく、この離散は、少なくとも次の数年間、独自の意義を保持する公算が大きい。この少なからない大量の不法難民は、いかにして生存手段を獲得し、どこで、いかに暮らしているのか?韓国プレスの多数の出版物は、韓国社会学者の研究と同様に、今、これらの疑問にかなり詳細な回答を与えることを可能にしている。

 難民中で女性が優勢である以上、その大部分が中国到着後に現地住民と結婚することは驚くべきことではない。上記アンケートのデータによれば、全難民の51.9%が現地の夫と暮らしているため、この結婚について詳細に言及すべきである。多くの場合、そのような結婚は、しばしば、根拠もなくもなく、「人間商人」(朝鮮語:サラム・ チャンサックン)と呼ばれる組織犯罪と密接に関係した現地仲介者の参加の下で結ばれる。いくつかの場合、仲介者は、親戚を通して、北朝鮮にいるとき既に、女性とその家族と接触を確立する。この後、仲介者は、潜在的花嫁の国境までの送り届け、鴨緑江又は図們江の横断並びに中国領内の旅行を組織する。そのような場合、全く自発的決定打だが、家族の窮状も暗示している。しかしながら、しばしば、難民は、国境横断後、中国において結婚仲介者とそのパートナーの匪賊の手に落ちる。時折、女性は、全く自発的にそのような接触に出て、難民にとって就職の機会が非常に制限され、恐らく、結婚が生存手段を見つける最も確実な方法であるため、自ら積極的にそれを探している。他方、しばしば、いかなる自発性もない場合がある。難民は、詐欺の犠牲となるか、単に力で略取される。

 仲介者は、現地住民に妻として自分の「商品」を売っている。公開された資料で言及されている価格は、1千と1万元の間と、非常に広い範囲を左右しているが、20〜29歳の女性の最も典型的な値段は、3〜4千元(400〜550ドル)であると思われる。この額は、「商品」の受領により支払われ、仲介者の管轄下に丸ごと入る。このことは、未来の花嫁とその家族自身がそのような取引への同意を表明した場合ですら起こり、北朝鮮家族の利益は、このようにして娘を餓死の脅威から助け、家に食い扶持が1人少なくなることにある。売春宿への難民の売却に関する言及にも出会うが、そのような事例は、先ず第1に、貧しい中国北東部の省ではセックス産業が特に発展していないため、見たところ、比較的稀である。それにも拘らず、若干の難民は、北京、並びに中国南部海岸の都市の女郎屋と疑わしい施設で「働かされる」。

 購買者の夫となるのは、現地住民、主として、貧農、子供連れのやもめ、アルコール中毒者、麻薬中毒者、身体障害者 等、各種理由により妻を見つけるのが難しい者達である。いくつの場合、夫のせいでなく、問題も生じている。満州の大部分の村において、若い女性の都市への大量進出は、激しい「花嫁不足」をもたらした(ペレストロイカ前のソビエトの村でも良く知られた問題)。男性の民族所属については、しかるべき統計が単に存在していないため、語るのが難しいが、公開された話によれば、漢民族が朝鮮族よりも若干多い印象が生まれている。しかしながら、民族主義的態度を取る韓国の出版物 が、特別に状況に大きなドラマ性を付与するために、特に朝鮮人難民女性の漢民族への売却の事実に注意を集中していることが排除できない。勿論、中国に不法滞在する朝鮮人女性が中国市民との結婚を公式には登録できないため、そのような結婚は、中国当局により認められていない。それ故、法的観点から、単なる同棲 であり、最良の場合、何らかの伝統的な結婚の儀式により証明され、国家施設ではなく、同村人にとって全く合法的なものとなる。加えて、朝鮮人女性とその夫には、送還、最良の場合、著しい(3千から5千元まで)罰金 の脅威が常に覆いかぶさっている。これらの記事の著者は、中国に来て、そこで結婚した女性の「合法化」に関する言及に出会わなかったが、そのような合法化は、極めて困難であるか、全く不可能である公算が大きい。このことは、通常、一般に正式登録できない子供の法的地位にも、これか生じる全ての結果と共に影響する。それにも拘らず、ある程度まで、中国当局は、実際に生起している状況を考慮している。韓国プレスの報道によれば、中国で生まれた子供を有すし、強制送還の対象となった難民は、自分の選択で、子供を連れて行くか、中国に残すことができる(北朝鮮の状況を考慮すれば、大部分は、子供を父親の元に残すことを選ぶ。)。

 自分の新たに得た中国の家族に関する難民の意見は、非常に様々である。その大部分(それにも拘らず、少ないようにも思われる。)は、自分の新しい夫に全く満足しており、夫について暖かみと感謝をもって話し、時には、死ぬまで彼らと一緒にいたい希望を表明している。プレス上では、北朝鮮に送還された女性が再び、しばしば、少なからない危険を冒して国境を横断し、自分の夫の元に戻ったという事例が再三叙述された。他方、売られた女性の多くは、飲酒と賭博に完全に依存し、しばしば、殴られ、穀つぶしだと非難されている。しばしば、この全ては、朝鮮人女性の逃亡で終わり、何らかの仕事を見つけようと試みるか、やはり、当初結婚仲介者の手に、後に次の夫の家に入る(自発的であろうが、なかろうが)。勿論、当局に訴えることも不可能で、危険なだけである。第1に、大部分の朝鮮人女性は、中国語を知らず、第2に、そのような訴えが終わらされる公算が大きい送還を恐れている。

 難民の過半数は、結婚しており、残りは、各種日雇い仕事で生活費を稼いでいる。最も典型的な職業は、食堂のウェートレス、レストラン又は建設現場の補助労働者、家政婦、富農の小作人としての労働である。1999年春に調査された難民の18%は、自分の労働に対して金を受け取り、12.4%は、単に食と住のために働いていた。後者のグループには、中国の自分の親戚の元で暮らしている難民の10.7%も加える必要があり、彼らは、彼らを匿った家族の家計を積極的に助けもし、事実上、そのようにして自分の食と住を稼ぎ出しているものと予想できる。通常、雇用者となるのは、朝鮮族であり、難民が通常、中国語を知らないため、このことは理解もされる。北朝鮮人が中国領土に不法滞在している以上、雇われて働く者の給料は、現地住民よりも顕著に少なく、全時代、全民族の出稼ぎ労働者に良く知られている現象である。例えば、富農の農場の小作人は、最良の場合、住と食に加えて、1日5〜8元(約1ドル)を受け取る(既に語ったように、多くの場合、一般に何も支払われない。)。同時に、この僅かな金も、それで買える商品も、北朝鮮標準で、少なからない価値を有する。大部分の男性難民の夢は、金を蓄え、食料と商品を買い、北朝鮮に残された近親者を援助するために帰路につくことである。

急ごしらえの住居付近の北朝鮮難民一家

 総じて、難民を仕事に雇うことは安全ではない。国境の省では、難民の隠匿又はその雇用に対して、1千から5千元の罰金制度が有効である。しかしながら、大部分の難民が朝鮮人、中国人を問わず、現地住民の彼らへの態度について好感を持って話していることを指摘しない訳にはいかない。難民とのインタビューでは、しばしば、あらゆる公的な禁止にも拘らず、全く見知らぬ現地住民が、彼らに衣食を提供し、必要な場所まで行くのを助け、働き手に特別な必要性がない時ですら仕事に取り、数日後、自宅で飢えで衰弱した旅人に隠れ家を与えたことについて、読むことができる。 ここに、文字通りの意味において選び出した言葉がある。「我々は、4人(図們江を渡ってきたばかりの4人の難民)で、家の1つに近づいた。門は閉まっていたが、主人が灯りを点け、我々を中に招いた。我々は、自分の状態について話し、(主人は) 我々が食事をして、一晩留まっても良いと語った」。ここに、別の事例。図們江を渡る際に溺れた難民の娘が、中国河岸に抜け出してきた。「夜が明けると、川に魚を釣りに来ていた 老人が私を見つけた。彼は私に近づき、私の話を聞き、持っていた食事を私に与えた。彼は、私に10元を与え、どうしたら目的地まで辿り着けるか説明した」。更にもう1つの事例。難民一家は、比較的安全な遠くの村まで連れられた。「そこには、空き家があり、村民達は、・・・衣類、醤油、塩、野菜を我々に提供した」。難民の話において、不法移民の援助に対する処罰を恐れる現地住民の恐怖の訴えにも出会うが、そのような経緯は少ない。

 中国の組織犯罪の隊列における難民の重大な活動に関する情報は、現在のところないが、理論的に、不法移民が現地犯罪結社の隊列を満たすか、独自のものを創設することが予想されるはずである。恐らく、そのような情報の不在は、中韓マスコミの自主検閲か、恐らく、難民中に女性が顕著に優勢であることにより説明される。同時に、北朝鮮の浮浪児は、満州の都市において、ますます顕著な問題となりつつある。

 一見したところでは、大部分の難民にとって問題の最も論理的な解決は、韓国への出国のはずである。しかしながら、そのような事例は、唯一的、排他的性格を帯びる。このことは、一連の原因により引き起こされており、その内、最も重要なのは(しかし、唯一ではない)、韓国自身が難民を自国民と認めることを公然と望んでいないことである。難民が中国に不法滞在している以上、彼らは、しかるべく手続された文書を持って、公式ルートで韓国に出国することができない。難民が韓国大使館又は領事館とどうにか接触を確立できた場合、そこで、決して抱擁の手を広げられない。韓国政府は、大韓民国への難民の出国を奨励していないが、ソウルは、従来通り、「自称」北朝鮮の全難民が、定義上、韓国市民であると公式に考えている。そのような慎重な立場が多くの場合、第1に、朝鮮内部の紛争における自国の中立を入念に守り、第2に、南に殺到する難民の 雑然かつ危険な人波の乗り換え地点に変えるつもりのない中国との関係において、問題を回避する希望により引き起こされていることが分かる。しかしながら、ソウルの消極性には、別のより重要な原因もある。その大部分が余り教育されていない農民である難民は、韓国社会に上手く同化できるチャンスが非常に少ないことが明らかである。韓国に来た彼らは、社会問題の追加の源泉となり、一生、国庫の負担になる公算が大きい。この証明となるのは、待望のソウルまで辿り着いた脱北者の経験である。1999 年末現在、韓国にいた全脱北者のほぼ50%が、失業者で、仕事を有している者の80%の給料は、国内平均のほぼ半分未満、月1百万ウォン(900$)未満だった。この際、成功した脱北者中において、圧倒的多数が北朝鮮下層代表である満州の難民中には、事実上存在しない高等教育を有する者が少なからない割合を構成していることを考慮する必要がある。それ故、中国から韓国に渡ろうと試みる難民は、ソウル公式代表から最小の支援も見出していない。

 この規則には、3つの例外があり得る。第1に、韓国の組織と「機関」は、何らかの諜報・情報又はプロパガンダ的価値を有する 難民がソウルに渡ることを喜んで助けている。元高位軍人、脱走した特務機関職員又は高位党員は、彼らを出国させ、ソウルに送り届ける方法を見つける韓国代表部機構側からの無条件の支援を当てにできる。

 他方、第1に、国境横断を助け、中国領内の事後の旅行を保障し(この満足は安いものではなく、成功は、決して保証されない。)、第2に、大韓民国入国に必要な文書の手続に奔走する用意がある親戚がソウル又は西側諸国にいる難民(少数)も、チャンスを有する。例えば、1996年秋、北朝鮮人の大グループ(大部分が一家である17人)が、秘密裏に国境を越え、中国領内の1ヵ月半に渡る旅行を実行し、満州から当時まだ英領だった香港までの距離を踏破した。彼らの香港グループは、無事にソウルに到着した。この旅行は、米国に居住する難民の親戚が出資したことによってのみ可能となった。難民が韓国に入国できるように、親戚が自分のルートで手配したものと予想できる。

 最後に、難民達が騒動を引き起こして、韓国プレスの好意的な注意を引き付けられたいくつかの事例も知られている。この後、 当局には、彼らを国内に入れる以外の何も残されていなかった。

 勿論、難民に対するそのような自制は、特に吹聴されていない。逆に、時折、ソウルの公式代表は、中国に滞在する難民への援助の希望に関する美辞麗句を連ねた宣言をしている。つまり、1999年10月、統一部長官林東源は、韓国議会に出席し、韓国が北からの全難民を受け入れる用意があると厳かに宣言した。しかしながら、当の統一部の官僚は、長官がその表明で、「韓国在外代表部で必要な全ての移民手続を経た難民」を言おうとしていたと説明を急いだ。この「説明」が、表明自体を事実上抹消したことが理解される。

 しかしながら、難民の大部分は、韓国 に向かうことを全く計画していない(恐らく、そのような計画の実現不可能性を理解しているため)。その大部分は、中国に定住し、そこで時と共に合法化されることを欲していると同時に、一部は、自分の中国滞在を一時的なものとして受け入れている。彼らの目的は、飢餓から逃れ、困難な時期の終わりまで持ちこたえ、可能ならば、北朝鮮で困窮している自分の家族を助けるために、少し金を稼ぐことである。飢えから少し回復し、小さな蓄えを得て、そのような難民は、帰途についている。しばしば、暫く後に、彼らは帰国して、往復商人、密輸業者及び難民の独特な混合物に変わる。

 中国警察と現地行政府の難民への態度は、政局に応じて変わる。韓国外交の若干の圧力にも拘らず、中国当局は、北朝鮮人に対して難民の地位を公認することを拒否し、彼らを中国領土に不法滞在し、それ故、追放の対象となる普通の不法移民と見ている。そのような公式の立場にも拘らず、多くの場合、中国警察は、彼らの存在を見て見ぬ振りをしており、難民の摘発がかなり面倒な仕事である以上なおさらである。総じて、現地当局は、難民援助に従事している韓国の各種社会(主として、宗教)組織の活動にも寛大に接している。同時に、中国側は、時折、朝鮮人町の「清掃」、難民の摘発及び追放に関する作戦を行っている。特に、そのようなキャンペーンは、2000年春に行われ、韓国の出版物の報道によれば、3月15日から6月15日の期間に渡って、ほぼ1万人が追放された。未確認の噂によれば、このキャンペーンは、5月初めに中国を訪問した金正日の訪問と関連した。行政の中心地とその近隣地区において、そのような作戦が特に行われているため、難民は、狩の犠牲となる可能性が少ない遠くの村で隠れ家を見つけることを好む。

 北朝鮮当局も、時折、国境警備を整備しようと試みているが、この試みは、顕著な効果をもたらしていない。難民の話からは、国境横断それ自体が最近では特別な困難ではない印象が生まれている。1992年、金チョンヨンは、その職業的訓練と国家安全保衛部(北朝鮮の主要特務機関)将校の少なからない機会にも拘らず、自分の国境横断を非常に綿密に準備せざるを得なかったが、1990年代末の難民の話では、隣町の市場に列車に乗るような口調で語られた「私は、図們江まで辿り着き、そこを通って中国に渡った」というフレーズにしばしば出会う。

 1990年代初めに至るまで、北朝鮮において、国境横断は、射殺に至るまでの厳しい処罰が規定された重国家犯罪として考えられていた。しかしながら、1996年以降、北朝鮮当局は、恐らく、極めて多数であることと、彼らの素行に政治的動機が明らかに欠けていることから、捕まった難民に対する政策を顕著に緩和させた。実際、国境の不法横断それ自体は、北朝鮮において、今、かなり小さな法律違反として受け止められている。脱北者の見せしめの射殺に関する断片的な情報が存在するが、この措置は、スパイ及び破壊活動で起訴された者(根拠があろうが、なかろうが)にのみ、例外的に適用される。国境横断の際に拘束された者の大部分は、短期間の集結所服役だけで済む。中国警察の手に落ち、北朝鮮に送還された者にも、同じ運命が待っている。集結所での服役期間は、通常、長くはなく、数週間である。時折、被拘束者は、検査終了後、「労働教養所」に送られるが、長くは続かない。中国により引き渡された脱北者には、集結所において、韓国特務機関との協力その他の重大な罪の承認が要求されるが、被拘束者の多くは、検査を受け、最悪の場合、その終了後、「労働教養所」に服役し、釈放されるため、特別な熱意なく、これを行っているようである(そして、機会があれば、再び国境を越える。)。

 対外政策の視点から、難民は、全関係者にとって小さくはない問題である(この際、難民自体については、若干の社会組織だけが真剣に心配している。)。平壌にとって、その存在は、主体式経済の完全な破綻と圧倒的多数の人民の窮状に関する余計な言及である。その外、北朝鮮に戻った難民は、他国の生活に関する好ましくない潜在的に危険な情報をもたらし、そして、韓国特務機関は、疑いなく、自分の目的のために状況を広く利用している。国内における何万、恐らく、数十万の不法移民の存在も、中国当局に特別な歓喜を引き起こしていない。難民が中国北東部の都市で引き起こしているか、引き起こし得る経済及び社会問題の外、彼らは、その存在の事実自体により、両朝鮮間の外交的機動の機会を低下させている。韓国当局も、容易ならざる状態にある。一方で、彼らは、彼らの同胞、理論的には国民ですらある難民をどうにかせざるを得ない。他方、韓国当局は、この人道主義の行為が将来非常に高くつくことを良く理解して、難民を受け入れることを欲していない。加えて、ソウルは、韓国の重要な貿易及び政治的パートナーである中国との関係において、不必要な問題を回避しようとしている。

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最終更新日:2004/04/26


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